良永和隆「婚姻外の男女関係(パートナーシップ関係)の一方的解消」に対する私のコメント
この解説のなかで、良永和隆さん自身の見解は以下の部分(のみ)です。
「ただ、本判決は、いくつかの要素(判決原文②―⑤)をあげており、そのいずれ(あるいはすべて)の要素が重視されているのかは、その射程を考える上で検討を要する。本件の女性(大学で「ジェンダー論」を教える大学助教授)は、生まれてくる子供の養育の負担により自分の仕事が犠牲にならないようにするために子供の養育を自ら放棄することを要望する(その結果、子供は男性の母親に引き取られて、養育されている)など、自分本位で身勝手なところがあると評価しうることからすれば(これは筆者の評価である)、本判決を婚姻外の男女関係に関する判例法理として一般化するには注意を要しよう。」
私は生まれてきた子どもの養育を放棄したのではなく、養育しないことを前提に子どもを産んだのです。そして、その責任を請け負った相手がそれを果たせず、自分の母親に委ねたのです。法律学の研究者ならば、その順序の違いが論理展開に大きな影響をもたらすことにもっと注意を払ってほしいです。ネット上の掲示板などに書き込んでいる人たちを含めて、ほとんどの法律関係者がこのワンパターンに陥っていると思います。
いかなる社会的制約もなければ子どもはかわいいものです。環境条件が違えば、たとえば安定した雇用下にあったり、周りの協力体制が十分だったり、経済的に恵まれていたり、子どもを産むことで生活上や仕事上で有利になるのだったら、私も違った選択をしていたでしょう。
しかし、日本社会では一般の女性が子どもを養育するためには何かを犠牲にしなければなりません。しかも、私が子どもを産んだのは、現在ほど子育て支援が叫ばれていない、16年前と13年前です。自由な時間が減るのが嫌だったり、経済的に苦しくなるのが嫌だったり、仕事の継続が困難になることが嫌だったりと人さまざまですが、女性たちは、子どもを養育するために犠牲にしなければならないことの大きさに次第に気づき始めました。現代の少子化は、女性が払う犠牲の大きさに対して社会があまりにも思いやりがないことへの抵抗の結果(のひとつ)です。
柏木恵子さんは『子どもという価値 少子化次時代の女性の心理』(中公新書 p. 179〜180 )に次のように書いています。
かつて、子どもが誕生すると、教養があり、心身健康な乳母を雇うことが慣行になっていた時代がありました。また養子に出されることもしばしばでした。産みの親が一番とは考えない、子どもの養育は子どもを尊重し愛情をもって育てる人なら誰でもできると考え、親が陥りがちな私情を超えた養育の長所を知ってのことでしょう。子どもたちは乳母や養親の下、つづかなく成長しました。
社会学者ほど社会の情勢に関心がないであろう法律学者には理解しがたいかもしれませんが、出産と養育を切り離して考えてみるといった思い切った発想の転換が必要であると思います。
ところで、良永論文には、重大な事実の誤認があります。
私は「ジェンダー論」を教える大学助教授ではありません。
子どもの音楽教育を専門とする大学教授です。
もし私が「ジェンダー論」を教える大学助教授ではなく、良永さんが「自分本位で身勝手」と評価する女性でなかったとしたら、婚姻外の男女関係に関する判例法理として一般化してよいと判断するのでしょうか。 そうであるならば、随分偏見が含まれていませんか。公正な法的判断とはその程度のものなのでしょうか。私の職業さえ取り違えているぐらい、私のことを何も知らない法律家が、「自分本位で身勝手」と評価することこそが、「自分本位で身勝手」です。
これは、「内縁の不当破棄との結論の相違について、事実関係の相違を理由にしてよいのか、また理由にするとすれば裁判官の価値観の偏りに左右されないようにどのように事実関係の要件化を図るか等、男女関係の破綻に伴う慰謝料請求の法理についてまさに再構築を迫る興味深い事例である」と水野さんが記述しているように、個人的な価値観を超えて検討すべきことであると思います。
(2008年4月8日 若干加筆修正)