東京芸大大学院の仲間 KIMI さん「パートナー解消婚訴訟」2004/12/05 に対する私のコメント
このブログを書いたのは、東京藝術大学大学院時代の友人です。
私がこの事件の原告であることを知っている知人、友人はかなりいると思いますが、判決があった2004年11月18日から現在までの間に、「サイト、読んでいますよ」と私に伝えた人たちの過半数が、大学院の女性先輩、後輩たちです。
彼女たちは"メタ認知力"に長けているのかもしれません。「裁判のことを話題にすると、深見さんを傷つけるかな」などといった一般的な気遣いはしません。そこが、普段それほど個人的な気持ちを曝け出すことはない関係であっても、大学院の仲間のすばらしいところです。それと比べると、判決直後、2ちゃんねるのスレッドに書き込んだ人たち(特に686、687、688、692、693、695を書いた私の知り合い)は“陰でコソコソ言うだけ”の一般人です。
私はこの人が想像するように自分を追い込んだつもりはありませんし、パートナー婚の婚姻中、裁判相手に応援してもらって仕事をしてきました。ただ30代のあの頃、自分で子どもを育てるという選択肢は考えられなかっただけです。
指導教官であるY教授が同じ大学院仲間であるT嬢の結婚披露宴で「おめでとう。子育てを終えたら博士課程に戻ってきてください」と言ったことがありました。女をそんな風にしか見ていない、と悔しかった。男性研究者が慢性的人材薄である音楽教育の世界でさえも、バリバリ仕事をしている女性のほとんどが独身か結婚していても子どもがいない。子育てをした女性はキャリアの面で10年遅れをとる。40代で講師もザラ。これが切磋琢磨の科学などの世界だったら、遅れをとるぐらいでは済まされないです。芽さえ出ません。大学院を出たときすでに34歳になっていた私はどうしてもそこから抜け出したかったのです。ひょっとしたら苦渋の決断だったかもしれないですが、「苦渋の決断だった」と百万回言っても、伝わらない人には伝わらないです。
「何かを得るには、何かを捨てなければいけない」と映るのかもしれないですが、私はできる限りのものを得たかったのです。
「パートナーだからこそ、一緒に助け合うことってできなかったのかな、とも思う。」と彼女は言います。
当時、相手の男の協力とは、駆け出しの研究者であった私が育児とかかわらずに仕事に没頭できる環境をつくることだったのです。「夫が執筆に集中できるよう、妻は泣く赤ん坊をおんぶして家の外であやした」という話ならばわかるでしょう。もう一度、相手の男が書いた最後の手紙を見てください。この手紙は証拠書類、甲号証です。「ボクは深見の求めに対し、よく通ったし、何よりも色々な面で今の位置までとか導いてきたと思う。」
夫の出世を望まない女はいないように、女が学問的に積み上げていくことに喜びを見出す男がいてもおかしくないと思いますが、ほとんどの人が理解できないみたいです。このあたりを理解できなければ、この事件から「母親の育児放棄」しか読み解くことができないです。