深見友紀子 最高裁・パートナー婚解消訴訟 オフィシャルサイト

本件に対する一般の人々の反応
Part 1

「おとこのおばさん」「猫の法学教室」に対する私のコメント

 最高裁の判決文のなかに、「被上告人が同大学で「ジェンダー論」の講義をするに際し、被上告人の求めに応じ、講義資料として自己の戸籍謄本を提供したり、学生にメッセージを寄せるなどの協力をした。」という一文があります。「自分も男なので、「妻」の実験に付き合わされた「夫」が気の毒に思いました。」という「おとこのおばさん」のコメント、「猫の法学教室」のブログに書き込まれた「・・・・今後もず っと「この女性の生き方」に付き合わさせるのは、どうかと思うのですけどね。」「この女性は、担当教科と生き方からすると、「結婚を悪」と考える昔ながらのフェミニストのようです。」というコメントは、この一文を根拠に書いているのでしょう。2ちゃんねるの住人ならば仕方がないかもしれませんが、こういったサイトに書き込みをしている人たちが、「実験」という言葉をあえて使うことに驚きました。

 私は音楽教育家であり、ジェンダー学者ではありません。自分の理論構築のために私生活を実験に使うことなどあり得ないです。ジェンダー学者でさえ、そのようなことはあり得ないと思います。

 前任校の富山大学時代、経済学部の小倉利丸教授に依頼されて、私はジェンダー関連の授業にゲスト講師として4回(2週連続を2回)、市民講座で1回、自分と相手とのパートナー婚について話したことがあります。引き受けたのは、実際の生活を語ってくれればいいと言われたのと、小倉さんが女性と家事労働に関する著作を出している人で、自身が実子とは暮らさず、事実婚相手の連れ子たちと同居していて、しかもその連れ子たちの実父と仲良くしていると聞いて、とても惹かれたからでした。現在私のサイトを管理してくれる人たちもそうした授業を通じて知り合った人たちですし、質の高いレポートを提出した学生も何人かいました。

 授業では、私と相手との関係、出産によって仕事を失いそうになったこと、人生の途中で姓が変わるのは絶対に嫌であること、相続に関して法律婚と事実婚とにどれだけ違いがあるかなどについて話しました。特に、私と相手の戸籍謄本をOHPで見せたときは、私語の多いマンモス授業なのに大教室全体がシーンと静まり返りました。反響は大きかったと思いますが、なぜたった4回でやめたかというと、まだ実社会での差別を受けたことがなく、結婚、出産で勉強や仕事ができなくなったというような経験もない学生たちに話しても無為だと思ったからでした。

 1997年1月22日の授業のなかで「子どもたちはどのように思っているのでしょうか。」といった質問が出ました。それらの質問に対して、東京にいる相手がFAXで回答しました。それを私がタイプしたものが以下の書面です。

学生さんたちの質問に対して
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 文末に「私、深見はとてもこのような自信は持ちえていません」とわざわざ付記しているように、これは彼の言葉であり、彼自身の家族や愛情、教育についての考え方を表しています。この文章を読めば、「フェミ女に付き合わされた」というのはまったくの誤解であることがわかるはずです。私は相手の学生へのメッセージをバカバカしいと思っていました。「こんなこと、別に人にとやかく言われることでもないし、説明する必要もないし・・・・。」形式さえ整っていれば良しとする大抵の日本人は、健気にシングルマザーをしている女性に対しても、「親のエゴ」「父親が必要」「子どもがかわいそう」といった言葉を浴びせるぐらいですから、私にはその100倍の非難があってもおかしくないのは初めからわかっていることでした。

 男女の問題や家族について考える人は、ここに書かれている言葉と、その4年3ヶ月後の、2001年5月2日に私に宛てた手紙上告理由書上告受理申立て理由書などを比較し、かつ、この授業が行われた1997年から、破局した2001年という時代背景、彼の年齢、再婚相手の女性が30代半ばのフリーターだったことなどを総合するといろいろなことが見えてくると思います。それを読み解くことの重大性を実感できると、個々人を揶揄していても仕方がないことがわかるはずですが・・・。

 「猫の法学教室」のブログにコメントした方々は法律関係者か法律に関心のある人たちでしょう。「家族法」を学ぶのと並行して、うごめく現実を読み解く能力やセンス、好奇心を持ち合わせなければ、信頼される法律家にはなれないと思いますよ。旧態然とした社会しか眼に入らず、旧態然とした文体しか使わない法律家がどれ程多くいるかを私はこの裁判を通じて想像することができました。

 2ちゃんねるに、「大学でジェンダー論の講義を持ってるようだから、関係解消によって「社会的信用を失った」のかもよ。講義の中で、自分たちの関係を事例として取り扱ってるようだし。 まあ、失ったのは社会的信用って言うより、講義内容の説得力だろうけどな」(原文ママ)といったコメントがありましたが、私が現在同じような授業や講座を頼まれたなら、今のパートナーとの関係、この事件について率直に話すだけです。この事件は、当事者である2人のうちの一方がある日突然、今後は婚姻意志を持てないと表明したに過ぎないのです。離婚したからといって結婚という制度が崩壊しないように、パートナー婚という概念が崩壊したわけではありません。

 それよりも、延べ500名の学生にわざわざ遠隔地からメッセージを寄せた人間に、上告受理申立て理由書のなかで、私との関係を「好奇心と性愛の赴くままに任せた場当たり的関係」「本来の愛情と信頼に基づく関係ではない」「両者間においては、権利義務関係は勿論のこと、共同の目標や目的、または計画など、どちらかが欠けることにより支障をきたす事柄は生活上でも、その他においても一切無い」「精神生活においても共通性がない」「社会常識から著しく乖離した常人には理解しがたい関係」と堂々と言える余地を与えてしまえることが、法律婚とパートナー婚との明確な差異であると思います。このことは、事実婚をしている人たちにも参考になるのではないでしょうか。

 精神的なものを除いて、「どちらかが欠けることにより支障をきたす事柄は生活上でも、その他においても一切無い」というのが、これからの男女関係の基盤のひとつになっていくと私は予期しています。現在の私とパートナーSさんの関係は、2人の間に子どもがいないので正真正銘そういう関係であると思っています。なぜ子どもがいるかいないかで違いが生じるかについては、エイサクさんの日記「歌うたいのカケラ」に対する私のコメントをご覧ください。

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深見友紀子(ongakukyouiku.com)

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