「夫婦別姓を待つ身の溜息」に対する私のコメント
「夫婦別姓を待つ身」さんは、ここで「現状を見ても、実体の伴う事実婚であるならば、かなりの範囲で婚姻の効果を享受できます。そうなると、法律婚でしか得られない効果には最後に何が残るだろうかとしばしば考えます。夫婦で同じ氏を持つこと、だったりして。」と言っています。この言葉は、結局「同氏」だけしか残らないかもしれないということを予見している点で注目できると思います。しかし、このように、かろうじて1つだけ残った法律婚でしか得られない効果「同氏」でさえも、法律婚に別姓を選択できるようになったら消えてしまうことになります。
いったいその後に何が残るのでしょうか。
「夫婦別姓を待つ身」さんは、残るのは婚姻の実態であるとし、婚姻に準じる内縁の要素として、○共同生活があること、○家計が同一であること、○子どもを共同養育していることの3つを挙げる毎日新聞の解説を引用しています。
しかし、まず子どものいない夫婦の増加によって、婚姻の実態があると判断する要件としての子どもの共同養育が崩れ、家計の同一性も女性が社会的地位を獲得するにつれて崩れていくに違いありません。収入は個々人の社会的能力への対価、あるいは保有する資産の運用によって生み出されるものなのですから。
別居についても、子どもの教育などを理由に夫が単身赴任になるといった、別居を余儀なくされたケースだけではなく、互いの仕事などのために主体的に別居を選択するケースも増えてきました。さらに近い将来、フリーターやニートなど、同居したくても経済的に不可能な人々の大量出現によって、共同生活があることも、必ずしも婚姻の実態があると判断する要件にはならなくなると思います。
つまり、現在「婚姻の実態」と思われているものが次々に崩れる・・・。というよりもむしろ、婚姻の実態は常に変化するものなのです。
○共同生活があること、○家計が同一であること、○子どもの共同養育していること―これら3つすべて当てはまらなかった私と相手との16年にわたるパートナー婚は、少し時代の先を行き過ぎたのかもしれません。
2人の間に子どもがいなければ同棲と区別ができず、経済が独立していればただのルームシェアになってしまうのかもしれません。だからこそ、夫婦別姓の法制化を願って入籍せずに事実婚をしている人たちは、婚姻の実態を遵守するのだと思いますが、そのことで、かえって"制度の改革者"らしさがなくなってしまう―そうした落とし穴に気づいていないように感じます。夫婦別姓に関するサイトを開き、この事件に対してリアルタイムでコメントをする人たちが、法律婚をしている人たちよりも保守的に見えてしまうのは皮肉な結果です。
法律が関係を作るのではなく、当事者それぞれの関係が「婚」を形づくるべきなのだと思います。