「ダメなものはダメ」日記 〜 ダメなもの「パートナー関係」(2)に対する私のコメント
「ダメなものはダメ」日記 ダメなもの「パートナー関係」(2)は、判決の3日後の2004年11月22日に書かれたものです。私がサイトを開いたのはその後ですから、書くための材料は、最高裁の判決文と、新聞報道だけのはずです。
このサイトの著者Dさんは、私をジェンダーフリーの旗手と決め付け、相手の男性の親が孫を欲しがった、長男には病気か障害がある、相手の男性が長男を施設に入れようとしたのにはよほどの理由があるのだろうとしていますが、そのすべてが事実ではありません。こうした事実の誤認は、判断材料が少ないためというよりもむしろ、経験の浅さあるいは狭さや、常識に囚われてしまう素直な性格に起因していると思います。社会を見抜いていく想像力が欠如しているのです。このことは2チャンネルに書き込む若者にも顕著な傾向ですが、Dさんは"法曹の卵"なのですから、もっと社会に目を開き、想像力を働かせる必要があるのではないでしょうか。
Dさんは、私がコラムを書き進めるにつれ、「ジェンダーフリーの旗手という表現については謝罪し撤回させて頂く」、「「体売っちゃまずいだろう」と「金で出産を請け負ったことに他ならない」という表現については謝罪して撤回させて頂く」、「親のインチキ思想の実験にされという表現については謝罪し撤回させて頂く。」(2005年2月13日)と同サイトで謝罪しています。ここでもし、私の娘が「他人がいろいろと想像するのは勝手だけど、アタシは何も傷ついていない」と反論すれば、「子どもが不憫」と言ったことについても謝罪するのでしょうか。
Dさんの主張は、見ず知らずの子どもに対して「不憫である」「被害者」、親に対して「子を犠牲にしている」「親のエゴ」「残酷」と言っていることからもわかるように、子どもを中心とする近代家族主義に基づくものです。当人たちでさえ"〜主義"という確固としたものであることを気づかないぐらい、広く浸透し、日常化した主義であり、戦後になって登場した比較的新しい主義です。
この近代家族主義とは、子どもを持ち出して親の自由な選択を制限してこそ再生産されるイデオロギーです。「三歳児神話」に代表されるように、「母」の役割が他のものと取り替えられるのを非常に嫌い、子どもを他の人に預けたり、保育所に頼ったりするのを基本的に嫌悪します。彼らは、おそらく産んで育てていない私の行動など犯罪ぐらいにしか思えないでしょう。
私は、この近代家族主義こそが、現在の少子化の最大要因であると思っています。近代家族主義者は子ども中心の考え方をするので、育児をしない女を強く批判し、「産んだ責任」を強調しますが、「自分の仕事のじゃまになるから」子どもは産まない、仕事のために子どもを持つことを諦める、結婚そのものをやめるというのなら許せるのです。「子どもを作らない夫婦」「シングル」には、子どもを持てない理由や結婚できない理由など、触れてはいけない部分がありそうなので、正面から攻撃することはしないでしょう。彼らは"道徳的"ですから。
「産んだ責任」「母としての責任」・・・・それらの威圧に対する無言の抵抗が少子化という現象となって現れています。普通の女性は踏み出す勇気や叩かれても平気な神経もないので、育児を担当しないことを条件に子どもを産むといった"非常識"なことはできないですから。
近代家族主義者の視点は1つの作為的な視点に過ぎません。ちょっと想像力を働かせ、別の視点に立てれば、私は女性が産む平均以上の子どもを産み、専門的知識により多くの子どもたちに音楽を教え、今までにしてきた経験から、若い女子大生たちの将来を応援している、非常に社会貢献度が高い女とみなすこともできます。
私の周りで第一線の音楽教育者やアーティストの大多数が子どもを産んでいません。自分で育てなければという呪縛が強かったのか、そういう機会に恵まれなかったなどさまざまな理由はあるでしょうが、彼らに子どもがいたら、アーティスティックな遺伝子が受け継がれるのに・・・・。私は、近代家族主義者の主張に絡み取られることなく、産んで育てず、DNAは残すという今までにはないやり方をとったことを後悔していません。Dさんは、「子供を産むこと「だけ」がそんなに偉いのか? 」と言っていますが、きちんとした仕事を持っている女性が280日を何回もお腹に子どもを抱えて働いたり勉強したりするだけで、とても大変なことです。産後も約一ヶ月は十分には動けません。
「家」制度的家族主義での「子供」とは労働力としての「ドレイ」であり、そして「親(特に男)」は「家」の「主人」であったのに、「家庭」的近代家族主義では「子供」こそが「家庭」の「主人」であって、「親」はその「ドレイ」に貶められています。だから、人が「親」になるとは、「家庭」的近代家族主義のもとでは、これまで「主人」として育てられてきたものが突然「ドレイ」に降格されることであって、そこに「個人」が現在の状況をなげうって飛び込むためには相当の心理的代償(「親としての喜び」「母性愛」「人格の成熟」その他のイデオロギー)が必要とされるのです。すなわち「出生率」の低下とは「家庭」的近代家族主義の内面化の一つの帰結であり、これは、その論理の貫徹が自らのイデオロギーの再生産の障害となるという自己矛盾の典型例にほかなりません。「〈別姓〉から問う〈家族〉」 諌山陽太郎 勁草書房 p.130から引用
このサイトの著者Dさんが非常に憤っている「敗訴後の私のコメント(毎日新聞)」については、毎日新聞記者、小林直さんの見解を引用する際にあらためて説明します。