No.7 金650万のゆくえ
最高裁の判決文のなかに以下のような箇所があります。
上告人と被上告人は、長女の出産に際しては、子供が法律上不利益を受けることがないようにとの配慮等から、その出生の日に婚姻の届出をし、同年9月26日に協議離婚の届出をした。また、被上告人は、上記の約束に基づき、妊娠及び出産の際の通院費、医療関係費及び雑費等を上告人に請求して受領したほか、上告人の親から出産費用等として約650万円を受け取った。
この文章を読んで、私が650万円で出産を請け負ったと思い込んでいる人が多くいるようです。出産費用だとしたら高額すぎませんか。
このお金は何かというと、相手の両親にとっては「住宅支度金」であり、私にとっては「出産保険」でした。
相手の両親は、当時すでに結婚していた次男に対しては、関西にある妻の実家の敷地に、次男夫妻と妻の実母、妹が同居できる家を新築し、まだ結婚相手もみつかっていなかった三男に対しても、早々と相手の両親の敷地に新婚家庭のための家を建てていました。
古美術関連の本の蒐集に可処分所得のほとんどをつぎこんでいた長男は、弟たちのような一般住居ではなく、私設図書館をつくりたいという夢をもっていました。相手の親は、長男の古書集めは趣味であり、それを続けることができるのは、別居し、自活している私のおかげであると思っていたようでした。そこで、そうした事情を考慮して、私が妊娠したのを機に、約4000万円の「住宅支度金」を相手と私へ5:1に配分しようということになったのです。約4000万円の6分の1が650万円なのであり、相手以外の二人の息子に対しても同様に与えた「住宅支度金」の一部だったのです。
650万円は、平成元年の初め、私の妊娠中に相手の父から私の父へ送金されました。相手はその約1年後、図書館をつくるための土地をその「住宅支度金」の6分の5を使って八王子市内に購入しました。
実家に家を建ててもらった次男の妻、結婚する前から新居があった三男の妻、650万円を現金でもらった長男のパートナーである私。それまで私と相手は互いの都合によって別々に暮らしているだけでしたが、お金を別々に相手:私=5:1の割合でもらったことにより、共同財産をもたないという関係がことさら際立つ結果になりました。
私のその頃の年収は、ヤマハ音楽教室の講師料と自宅レッスンの月謝をあわせて300万円ちょっとだったと思います。音楽教室は出産によって解雇になり(コラム Part 1 No.6 参照)、収入の大幅低下に大きな不安をもっていましたし、学業に集中すればするほど仕事はセーブしなければならなくなるため、年収の2倍程度のそのお金をもらったことで、大学院の2年間は失業保険があると思いました。
しかし、私は出産後3週間しか休みませんでしたし、音楽教室をやめたことによる減収分を自宅の生徒を増やすことで補えたため、650万円全額を一時払い養老保険の契約金にし、貯金することにしました。その頃の一時払い養老保険は10%の高利回りだったので、10年後の平成11年には満期金約1100万ほどになりました。一方、相手が購入した土地は、土地価格の暴落で購入時の5分の2ほどになってしまったのではないでしょうか。私が増やしたお金とそれほど大差はない額になったのです。
最高裁の判決文のなかで、「被上告人は、出産の際には,上告人側から出産費用等として相当額の金員をその都度受領していること」を理由の1つとして、「婚姻及びこれに準ずるものと同様の存続の保障を認める余地がないことはもとより、上記関係の存続に関し、上告人が被上告人に対して何らかの法的な義務を負うものと解することはできない」としていますが、まっとうな理由になっていないと思います。出産費用として相当な金を受領したために、関係の存続を認める必要もなく、相手に何ら義務がないと言っているのですから。出産費用を出してやったから、住宅を建ててやったから、結婚式にたくさんの金を使ったから、婚姻中に贅沢をさせてやったから、離婚に際しては賠償責任なしと言っているのと同レベルの文面です。
今回の最高裁判決は、今後、日本における事実婚、パートナー婚に関する審判の基準となる初めての判決であるとのことですが、そうであるならば、最高裁はもう少しまともな理由を挙げるべきだったのではないでしょうか。誰もが納得する理由を1つでも挙げれば十分で、多くの理由を並べ立てる必要はまったくないと思います(最高裁判決文参照)。
相手と私がごく一般的な夫婦であるならば、6分の5と6分の1に分けられた「住宅支度金」は1つにまとめられて、2人が住む住宅を取得するために使われていたはずです。しかし私と相手の場合は、5:1の共同名義となるはずの住宅資金が、5:1に振り分けられて入っただけのことなのです。
これはそれほど特異な例ではありません。夫婦が共に働いている場合、給与はそれぞれの労働への対価として、それぞれの口座に入り、その夫婦のやり方で出ていきます。専業主婦(主夫)の場合はそのポケットが1つとなりますが、専業主婦(主夫)が働き始めたとき(そのときはすでに専業主婦(主夫)ではありませんが)はポケットが2つとなり、出て行き方も複雑になります。こうしたことはもうすでに多くの人に認識されているはずです。
90年代以降中高年男性のリストラが社会問題となり、近年社会学者らが家計のリスクを回避するためには2つのインカムをもつことが大切であると力説し始めました。資産の運用にも先見性と判断力が必要であり、個々人の職業能力に対する社会評価が収入を決めるというのに、民法が婚姻の要件とする「経済の同一性」など、もうすでに崩壊しているのではないですか。
バブル全盛時代、東京都心の住宅を買うための頭金にも及ばなかった「住宅支度金」650万円。このお金のゆくえをもっと多角的に捉えることで、現代のさまざまな男女間の問題が見えてくると思います。「代理母である」とか、「出産で金儲けした」などといった時代錯誤な批判をしている場合ではありませんよ。