深見友紀子 最高裁・パートナー婚解消訴訟 オフィシャルサイト

コラム Part 1

No.6 私は代理母か

 判決直後に、あるインターネット上の掲示板に私に対する批判が書き込まれているのをみつけました。

「ダメなものはダメ日記「パートナー関係 (2) 2004 11 22」

 書かれた日時から、一連の新聞報道と最高裁の判決文だけを読んで書かれたものであることがわかりますが、書き込んだ人たちが推測している一般的な関係と私と相手との実際の関係には相当なずれがあります。自身の狭い経験に基づき他人の人生を推し量ろうとしても限界があるということでしょう。
 コラムNo.6以降では、私に対する批判や日本中に蔓延している「女は・・すべき」「夫婦はこうあるべき」などのさまざまな「べき」に対する意見を織り込みながら、事実を説明していきたいと思います。

 まず、長女の出産費用と養育費用について。
 相手と出会った4ヶ月後の29歳の春、私は東京芸大を卒業してヤマハ音楽教室の講師になり、その傍ら近所の子どもたちにピアノを教え始めました。講師2年目に大学院を受験し、合格。相手の強い希望で妊娠したのは大学院1年の時、31歳の秋です。31歳といっても、22歳で大学を卒業して9年経った31歳とは状況が違います。社会に出るのがとても遅れたため、子どもをもつことなど考えてもいなかった私に「自分が育てるから子どもが欲しい」と相手は執拗に頼んだのです。その執拗さは尋常ではありませんでした。度重なる話し合いの結果、「出産・養育費用は相手が負担、その代わり、相手は私の出産後の生活の面倒は一切みない」という条件で私は子どもを産むことにしました。
 子どもは母親が育てるべきという考え方の人には認めにくいことでしょう。しかし、私と相手との間で話し合って父親が育てると決めたのですから、たとえ現在の日本における社会通念とは乖離していたとしても尊重されるべきであると私は思います。両性の取り決めや女の意思で子どもをもたないと決めるのと同様、自由意思であるはずです。

 長女の予定日は6月6日。ヤマハ音楽教室はゴールデンウィーク前に発表会があるので、それをやり終えてから産前6週は休もうと考え、計画的に妊娠しました。しかし、私はこの妊娠により解雇になりました。妊娠がわかった直後、流産の兆候があると医者に言われたのに仕事に出掛けた私を、相手が音楽教室にやってきて連れ返すという事件があったためです。その後、同じ職場で子どもが出来ても働いている人がいるので、私も働き続けたいという要望を出せば働けたかもしれませんが、当時、教室のチーフだった人は相手の怒鳴り込みに対してかなりの不快感をもっていましたし、講師を3年もやれば音楽教室を運営するために必要なノウハウをすべて身につけたと思ったので、とりたてて解雇の決定に抗議しませんでした。
 大学院には出産1週間前まで通っていました。自宅でのレッスンの仕事は出産の前日までやり、出産後3週のみ大学院の仲間が代講をしてくれました。夏休みまでの3週間大学院は休みましたが、仲間がゼミや講義を録音してくれて、相手が大学に録音テープを取りに行き、私は病院や自宅でそれを聞きました。
 男であろうが女であろうが、職業や研究に真剣に取り組んでいる時、ある期間それから離れなければならないのは大変苦痛なことです。特に仕事人として発展途上だったり、仕事を覚えて一人前になろうとする時期には致命的な損失となります。私はそうした休業期間を最小限にしたのです。

 この出産で私が相手から受け取ったお金は、休業による逸失利益20万円です。検診や出産の入院代も相手が払いましたが、それらは相手が勤務する会社の健康保険組合から補助がありますから、負担はほとんどゼロのはずです。出産・育児休業中で収入がない場合、休業しないほうが(ほとんど100%男)が休業しているほう(ほとんど100%女)の経済的面倒をみるしかないのに、私と相手のような男女カップルの金銭のやり取りには、金を儲けるために子どもを産んだに違いないといった非難があるのはおかしいと思います。あの頃の私は収入も少なかったし、わずか3週間しか休まなかったため、その程度の補填で済んだのです。現在1年も休んだなら、逸失利益は1500万円です。そのうえ、新しい仕事や人的ネットワークを開拓する機会を失ってしまいます。

 最高裁の判決文で、「上告人(相手)と被上告人(私)との間の上記関係については、婚姻及びこれに準ずるものと同様の存続の保障を認める余地がないことはもとより、上記関係の存続に関し、上告人が被上告人に対して何らかの法的な義務を負うものと解することはできない」理由の一つに、「被上告人が、出産の際に上告人側から出産費用等として相当額の金員をその都度受領していること」を挙げているのは、正当な理由になっていないと思います。

 長女は予定日に生まれ、誕生後1ヶ月は私が育てました。生まれてきた子どもは自分で育てると言っていたのに相手は預けるところを見つけることができず、1歳までには必ずみつけるという約束で娘を静岡にある相手の実家に預けました。相手の会社は、社内保育園もありましたが、それを利用することもしませんでした。私はその年の初冬まで母乳を搾り、冷凍庫がいっぱいになったらクール宅急便で送っていました。養育にかかる費用は相手がもつという約束になっていましたから、母乳を詰める袋や宅急便代は相手の負担でした。自分で育てるという約束はどうしたの、と問い詰めたことも何度かありましたが、せっかく産んだ子どもの生存が脅かされているわけでもないですし、私は自分で育てるのならば産んでいませんでしたから、放っておくことにしました。母親として少しは知恵を貸すことが一般的であるのなら、私は一般的ではなかったということになるでしょう。実母に育児を丸投げしているのにもかかわらず、相手は次第に自分側で育てていることは自分で育てていることと同じだと言い張るようになりました。

 私が大学教授であることから、経済的に裕福なのに男にばかり支払わせていたことを批判している人がいるようですが、当時の私は借り住まいでレッスン=内職をする大学院生であり、一方、相手は、日本の文化を牽引すると自他ともに認めていた、飛ぶ鳥を落とす勢いの百貨店に勤務していました。相手は妻の面倒はみないで子どもだけ得たかったのだと思います。私は、妻に子どもの面倒をみさせている一般的なやり方のほうがずっと得であることはウスウスわかっていたので、バカな男だと内心思っていました。

 1歳という約束が3歳になり、結局10年近く経っても自分で育てるという約束は果たされず、小学校4年生になる春に、相手の母は、長女を連れて上京しました。そして、後で生まれて施設で育っている長男を引き取って相手と暮らそうとしましたが、彼はそれをも拒絶しました。このいきさつについては後で詳述します。

 相手には子どもが欲しいという以外にもうひとつ、私を仕事面で成功させたいという欲がありました。2つしか歳は違わないのに彼は私が学部に入学した前年には大学院を修了していましたので、まるで保護者のようでした。そうした気持ちは最後の手紙(コラム Part 1 No.1 参照)によく表われていると思います。取り決めがあるので当然といえば当然ですが、私が子育てをすべきとは16年間、ただの一度も言ったことはありませんでした。私と同世代の女性には、たとえ一流大学から一流企業に進んでも、出産で退職し、子育てを終えたからパートなどに出ている人が大勢います。そうした女性の夫は、子どもが生まれた時点で、自分の社会的能力と妻の社会的能力とを比較したでしょうか。妻が退職することを勿体ないとは思わなかったのでしょうか。鈍感な男たちと、それに気付かせない鈍感な社会がそこにあるのです。

 最後の手紙で相手は次のように言っています。「クチていくばかりでナサけないと思っていただろうけど、まあ、出世はともかく、恋愛面での「生きる力」は残っていたのか・・・」 新居を探した時、長女が生まれた時、どこかで私が当たり前の選択をしていたら、今では飛ぶ鳥にも落とされるかもしれない企業の、出世できないサラリーマンの妻でした。抵抗し続けてよかったです。

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深見友紀子(ongakukyouiku.com)

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