11月17日のノートブックで、「夫婦別姓」について上野千鶴子さんと小倉千加子さんは“あほくさ~”と言っていることを書きましたが、同じ本 (「ザ・フェミニズム」) のなかで、上野さんは次のように言っています。
「教師をやっているのは、私のなりわいなんです。おまんまの種です。資産で食えず、夫の収入で食えない私は、自分の労働で食うしかないんです。そもそも人に頭を下げるのがいやで、朝起きるのが嫌だった。ないない尽くしで、気がついたら、目の前に大学教師の道しか残っていなかった。その大学教師の道も、もしかしたら紙一重の差で、今でも相変わらず非常勤暮らしを続けていたかもしれない。今でも非常勤暮らしを続けている同世代の研究者はたくさんいらっしゃいます。彼女たちと私を分かつ違いは紙一重です。」
29歳で大学を出てヤマハ音楽教室の先生になった私は、2年目に入ったある日、このままでは同じことの繰り返しだとフト思いました。2年目の秋、音楽教室には内緒で東京芸大の大学院を受け、合格。前例がないと言われて一度はクビになりかかりましたが、3年目は大学院生とヤマハ音楽教室の先生をやり、後半はさらに妊婦でした。
37歳のときにたまたまバスのなかでヤマハの元専務に会ったのが転機になりました。その人が私をある国立大学の教授を紹介してくれて、翌年その教授が私を富山大学の助教授に推薦してくれたのです。
私のように前職がヤマハ音楽教室の先生で、常勤の大学教師になれた人を私は知りません。まず、大学院に進まなければ、大学教師にはなれていなかったと思います。そして、2つのラッキーがあります。1つはバスのなかでヤマハの元専務に会ったこと。
私は第二子である双子を出産した後、髪の毛がとても抜けるので聖母病院(新宿区落合)に光線治療に通っていました。治療のあと、新宿に買い物を行こうとしてそのバスに乗りました。産後だから髪が抜けるのは仕方がないと諦めていたなら、バスに乗っていなかったかもしれません。
もう1つのラッキーは、その大学教授が「僕が知っているなかで、最も将来を期待できる女性です。子どもが2人いますが、東京で夫と義母が子どもの面倒をみますので、世間的な心配はご無用」と推薦文のなかで書いてくれたことです。赴任地に妻子を連れて行く男性研究者に対して、子持ちの単身赴任の女性研究者では弱いと思ったのでしょう。
大学というところはまだまだ非競争社会です。能力の低い男の教授に限って自分の立場を脅かさないイエスマン(たいていは男です)を呼んでくるという“負の連鎖”があります。富山大学助教授になっていなければ、今の京都女子大教授もなかったと思うと、私は運がよかったです。上野千鶴子さんのような東大教授でさえも、「もしかしたら紙一重の差で・・・」と思っているのですから!