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 このノートブックは、深見友紀子が原告となった裁判・最高裁パートナー婚解消訴訟の補足説明としてスタートしました。裁判の内容を知らないと理解しにくい文章があると思いますので、興味のある方は、下記サイトまでアクセスしてくださいますようお願いします。
http://www.partner-marriage.info/

かつての大学院の仲間○○○さんへ

 昨晩、次のブログをみつけた。書いたのは、大学院時代の私を知り、もちろん今の私も知る人である。時期は、私が最高裁パートナー婚解消訴訟オフィシャルサイト(http://www.partner-marriage.info/index.html)を開いた直後、2004年12月の初め。

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 いくつかのブログで話題になっていた。
 私自身が事実婚を選ぼうとしているので関心がわいた。
 で、リンクをたどってみたら、なんと当事者の女性は私の知り合いだった。

 ここ数日、彼女の立ち上げたオフィシャルサイトを読んだりして、ぐるぐると考えてしまい、職場でもひととき「月給ドロボー」状態に陥りもした。
 あのひとが、そんなことになっていたなんて。

 学生時代の彼女は、華やかで目立っていた。
 学生専業の私とは違って、すでにいくつかの仕事をもっていて、「女性の自立」に対しても非常に意識の高い人だった。
 利発で、研究の面でも光っていた。
 その雰囲気は大学院を修了したあともそのままで、研究職についてからの彼女は、とにかく怒涛のように研究を重ねていった。到底かなわない、と思いながらあこがれてみていた。およそ15年の間に共著も含めて6冊の本を世に出し、18本の論文を書き、3つの翻訳にかかわり、そのほかにもたくさんの仕事をこなしてきているのは、並大抵のことではない。

 彼女が子どもをもったことも、もちろん知っていた。「子ども用のコンピュータってあるけど、うちの子にはiMacやらせているの」彼女はそう言っていたような気がする。だから、子どもをそれなりに育てながらあれだけの仕事をしていたのかな、という印象が残っていて、ただただすごいんだなぁ、と感じていた。

 かわいくないはずのない子どもと意識的に離れ、
 パートナーとして大切なはずの男性とも意識的に距離をとり、
 「ひとり」に自分を追い込んで、あれだけの研究成果はそんなふうにして産み出されてきたのだ。
 それほどまでにしなければ、できなかったことなのだ。

 何かを得るには、何かを捨てなければいけない、ということをあらためて感じさせられた出来事だった。
 でも、感情的には、違和感が残る。それほどまでにしなくても、なんとかならなかったものだろうか。パートナーだからこそ、一緒に助け合うことってできなかったのかな、とも思う。
 きれいごと、だろうか?
[ 更新日時:2004/12/05 22:44 ]
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 私はこの人が想像するように自分を追い込んだことはないし、パートナー婚の婚姻中、裁判相手に応援してもらって仕事をしてきた。ただ30代のあの頃、自分で子どもを育てるという選択肢は考えられなかっただけだ。

 Y教授が同じ大学院仲間であるT嬢の結婚披露宴で「おめでとう。子育てを終えたら博士課程に戻ってきてください」とか言ったことがあった。女をそんな風にしか見ていない、と悔しかった。男性研究者が慢性的人材薄である音楽教育の世界でさえも、バリバリ仕事をしている女性のほとんどが独身か結婚していても子どもがいない。子育てをした女性はキャリアの面で10年遅れをとる。40代で講師もザラ。これが切磋琢磨の科学などの世界だったら、遅れをとるぐらいでは済まされない。芽さえ出ない。大学院を出たときすでに34歳になっていた私はどうしてもそこから抜け出したかった。

 「何かを得るには、何かを捨てなければいけない」と映るのかもしれないけれど、私はできる限りのものを得たかったのである。

 怒涛のように仕事ができたのは、都会派の私は富山では研究以外に何もやることがなかったからと、毎週サッサッと東京に戻ってしまうので、いつまでも富山にいる人ではないと思われて、長期的な役割を持たされなかったためである。午前2時まで研究室にいた。いつも研究者公募情報(http://jrecin.jst.go.jp/)を見ていた。ああ、懐かしき8年間だ。

 娘は今も赤(ピンク?)のiMacを使っている。最近は携帯ばかりだけど。裁判相手である父親はタイプすら打てないのに、娘は“早打ち少女”である。

 この週末、レッスンとミーティングで東京に戻ってきたが、パートナーSさんは所用のため京都にいるので、きょうの夜には京都へ向かう。Sさんがもし東京にいれば、火曜日の3時間目に間に合うように東京を出て、東山七条の女坂をキャリーを引きずってダッシュするところなのに・・・・。

 相手が変われば関係性も変わる。助け合い方も変わる。


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KIMI 2005年06月05日(日)23時00分 編集・削除

引用ありがとうございます。ブログの筆者です。
「追い込んだ」というのは私の誤解だったのですね。

>相手が変われば関係性も変わる。助け合い方も変わる。

ともかくも、今の深見さんが充実した毎日を過ごされているようで、ほっとしているところです。あまりに陳腐な表現だけど、やっぱり、仲間には幸せであってほしいから。

深見友紀子 Eメール 2005年08月10日(水)22時28分 編集・削除

文中のURLが変わったため修正しました。

2005年06月06日(月)19:34
 未明に書いたお返事を修正加筆します。
 KIMIさん、お返事ありがとう。音楽や教育のことは考えることはできても、凡庸な恋愛感、結婚観しか持たない人ばかりだった東京芸大の研究室で、この事件に関心を持ってくれた人がいたことはとてもうれしかったです。「事実婚」という言葉を口にする可能性のある2人は、私が訴訟を起こしたことを既に知っているし、このサイトのことも私から知らせたので、このブログの筆者は誰?と一瞬思いました。

 「パートナーだからこそ、一緒に助け合うことってできなかったのかな、とも思う。」とあなたが書いたことについて――


 当時、相手の男の協力とは、駆け出しの研究者であった私が育児とかかわらずに仕事に没頭できる環境をつくることだったのです。「夫が執筆に集中できるよう、妻は泣く赤ん坊をおんぶして家の外であやした」という話ならばわかるでしょう。もう一度、相手の男が書いた最後の手紙(http://www.partner-marriage.info/c1.html)を見てくださいね。この手紙は証拠書類、甲号証です。「ボクは深見の求めに対し、よく通ったし、何よりも色々な面で今の位置までとか導いてきたと思う。」
 夫の出世を望まない女はいないように、女が学問的に積み上げていくことに喜びを見出す男がいてもおかしくないと思うけど、ほとんどの人が理解できないみたいです。90年の暮れに出した修士論文、提出の一週間前には完成していたのに、彼は最後の一週間、ずっと添削していました。「ちょっとでもいい物にしようと思わないのか」とか言って。このあたりを理解できなければ、この事件から「母親の育児放棄」しか読み解くことができない。

 名を成した女優や作家が殊更育児のすばらしさを賛美しますが、ベビーシッターの時給の1000倍稼げる人たちの話は、一般の女性たちにとって別の世界の話です。それと同時に、育児休業を保障してもらえれば何年間でも家庭中心の生き方をしたいと思っている会社員の女性と我々研究者も別世界です。

 なぜ彼は協力できなくなったのか。山田昌弘氏の「希望格差社会」を読めばわかると思います。未来に希望があるからこそ、人は努力できるし、今を耐えることができるのです。